白金ターピリジン錯体は、なぜ水素生成助触媒として面白いのか
Why Platinum Terpyridine Complexes Are Interesting Hydrogen-Evolution Cocatalysts
1. 分子で「光を吸う」と「プロトンを還元する」をつなぐ試み
可視光で水から水素を作る反応は、一見すると単純な「2H+ + 2e- → H2」だが、実際には光吸収、電荷分離、電子蓄積、プロトン移動、H-H結合形成、触媒再生がすべて競争する難しい反応である。古典的な分子系では、Ru(bpy)32+ のような光増感剤、メチルビオローゲンのような電子リレー、EDTAやTEOAのような犠牲電子供与体、そして白金コロイドなどの水素生成触媒を別々に混ぜる三成分・四成分系がよく使われてきた。この方法は動くが、どの過程が律速か、活性種が分子なのか金属粒子なのか、分子設計で何を改善すべきかが見えにくい。
白金ターピリジン錯体、特に chloro(terpyridine)platinum(II), [PtCl(tpy)]+ は、この問題に対して非常に興味深い位置を占める。白金はプロトン還元に強く、ターピリジン配位子は可視光吸収・還元状態の安定化・π受容性を担う。さらに平面四配位のPt(II)-tpy骨格は会合しやすく、Pt...Pt相互作用をもつ二量体・会合体では長寿命の 3MMLCT 励起状態が現れる。このため、単なる「白金を含む触媒」ではなく、光吸収部位と水素生成部位が同じ分子骨格の中で結びついた系として設計できる。
酒井健先生のグループの一連の研究は、この特徴を段階的に掘り下げている。最初はPt(II)錯体をRu(bpy)32+/MV2+系の水素生成触媒として使うところから出発し、その後 [PtCl(tpy)]+ 自身が光増感剤と水素生成触媒の両方を担えること、さらにビオローゲン様アクセプターやカルボキシレートを導入すると電子蓄積・PCET・pH応答性を分子設計できることを示している。一方で、Eisenbergらの研究は、Pt-tpy系が「分子触媒」なのか「Ptコロイド前駆体」なのかという厳しい問いを突きつけた。したがってこの分野の面白さは、単に水素が出ることではなく、分子触媒とナノ粒子触媒の境界、光化学と多電子触媒の接続、電子供与体との弱い会合が反応を支配する点にある。
2. 酒井グループの流れ: [PtCl(tpy)]+ からPHEMDへ
酒井・正岡・小林・山内らの研究で中心になるのは、[PtCl(tpy)]+ 型錯体を「photo-hydrogen-evolving molecular device, PHEMD」として捉える考え方である。PHEMDとは、光を吸って電子を受け取り、それを水素生成に使う機能が一分子または強く結びついた分子構造の中で連携している系を指す。
2009年のOkazaki, Masaoka, Sakaiの論文は、この系列の重要な起点である。[PtCl(tpy)]Cl·2H2O がEDTA存在下、可視光照射で水素を発生し、しかもRu(bpy)32+やMV2+を加えなくても動くことを示した。著者らはこれを「単一成分の二機能性分子光触媒」と位置づけた。TONは7時間でおよそ3、量子収率は約2%と高活性とは言えないが、重要なのは、光増感と水素生成が同じPt-tpy骨格で起こる点である。反応速度が錯体濃度の二乗に依存することから、二量体または二分子的過程が水素生成に関わると解釈された。EDTA濃度に対する飽和挙動も観測され、[PtCl(tpy)]+ の会合体とEDTAのイオン対形成が初期電子移動を助けるという描像が提案された。
同じ流れで、2012年のKobayashi, Masaoka, SakaiのDalton Transactions論文では、4位にメチルピリジニウム基を導入した [PtCl(Mepytpy)]2+、略称PV2+ が報告された。この錯体は白金ターピリジン骨格でありながら、メチルビオローゲンに近い還元電位を示す「metalloviologen」として設計されている。PV2+ もEDTA存在下で単一成分光触媒として水素生成を行い、12時間でTON 4.1を示した。親錯体 [PtCl(tpy)]+ のTON 0.4と比べると活性というより耐久性が改善しており、著者らはPt-Cl結合の安定化が光反応中の失活を抑えたと考えている。
さらに同年のAngewandte Chemie論文では、PV2+ の一電子還元体PV+・を光励起して次の電子移動を進める、分子内ではないが分子ベースのZスキーム的反応が示された。PV2+ + EDTA系では一電子還元体がまず蓄積し、それが暗反応でH2を出すのではなく、PV+・の光励起が次の段階を駆動する。cis-[PtCl2(NH3)2]などのPt(II)助触媒を加えると、H2生成速度とTONが改善し、PV2+単独のTON 4.1から、PV2+ + Pt(II)助触媒の二成分系では24時間でTON 18.1まで向上した。ここで重要なのは、単に「還元されたPVがPt触媒を暗所で還元してH2を出す」のではなく、還元体の再励起を含む二段階光励起が必要だと示された点である。
2015年のYamauchi, SakaiのDalton Transactions論文では、三つのカルボキシレートを導入した [PtCl(tctpy)]2- が扱われた。この錯体はアニオン性でありながらEDTAとの弱い会合を作り、EDTAによる還元的消光を受けて水素生成を行う。ここで特に面白いのは、還元に伴って配位子側の塩基性が大きく変化し、pH依存のプロトン共役電子移動、すなわちPCETが反応の駆動力を制御することである。最大活性はpH 6.2付近で、12時間のTONは4.6だった。活性値だけを見ると控えめだが、白金ターピリジン骨格にカルボキシレートを入れることで、プロトン位置、電子位置、EDTAとの水素結合・イオン対形成を同時に設計できることを示した点が重要である。
2016年のLin, Kitamoto, Ozawa, Sakaiの論文では、Pt-tpy骨格に単一のペンダントビオローゲンを連結した PtL2+-Cn-MV2+ が合成された。ここではTONが21.5-25.2まで改善し、親PV2+のTON 4.1を大きく上回った。光照射下でまずPtL+・-Cn-MV+・という二電子還元状態が主生成物となるが、この二電子還元体は暗所で水素を出すには不十分で、さらに光励起された二電子還元体がEDTAで還元され、三電子還元状態に到達してH2生成を進めると解釈されている。つまり、ペンダントMVは単なる電子リレーではなく、光反応中に複数電子を一時的に受け止める「電荷貯蔵部位」として働く。
3. 他グループのPt-tpy系: 光増感剤、触媒、そしてコロイド問題
EisenbergらのPt(II) terpyridyl acetylide錯体の研究は、Pt-tpy骨格の別の顔を示す。2006年のJACS論文では、Pt(II) terpyridyl acetylide錯体を光増感剤、MV2+を電子リレー、TEOAを犠牲電子供与体、コロイドPtを水素生成触媒として用い、可視光水素生成を実現した。この系ではPt-tpy錯体は主に光吸収・電荷分離の役割を担い、H2生成そのものはコロイドPt表面で起こる。つまり「白金ターピリジン錯体が水素生成助触媒」というより、「白金ターピリジン発色団がコロイドPtを駆動する」例である。
2008年のJACS論文は、分野にとって警告的な意味をもつ。Pt(bpy)Cl2や [Pt(ttpy)Cl]+ を分子状H2生成触媒として使ったように見える系について、光分解でPtコロイドが生成し、それが実際のH2生成触媒になっている可能性を詳細に検討した。Hg添加、TEM、EDAX、TiO2上の観察などから、少なくとも一部の条件では「分子状Pt錯体」ではなく「光分解で生じたPtコロイド」が活性種であると結論された。この論文は、Pt錯体を使う水素生成反応では、H2が出たことだけでは分子触媒性の証明にならないことを明確にした。
一方で、2013年のMartis, Mori, YamashitaらのChemPhysChem論文は、[Pt(tpy)Cl]Cl系についてin situ XAFSで反応中のPtの状態を追跡し、単一成分系およびRu/MVを含む三成分系の両方で、Pt(II)の局所構造が保たれ、Pt(0)コロイド形成の明確な証拠は見られないと報告した。これはOkazakiらのHg試験やESI-MSに基づく分子触媒性の主張を、より直接的な構造情報で補強する重要な結果である。ただし、すべてのPt-tpy系で同じとは限らない。配位子、光強度、電子供与体、溶媒、表面固定の有無によって、分子触媒として働く場合と、Ptナノ粒子前駆体になる場合の境界は変わる。
2008年のDu, Knowles, EisenbergのJACS論文では、Pt(II) terpyridyl acetylide錯体を光増感剤、Co(dmgH)2系錯体を分子状H2生成触媒として用いる均一系が報告された。この場合、Pt-tpyは水素生成触媒ではなく光増感剤であり、H2生成はCo触媒が担う。400回以上のTONがPt発色団基準で得られ、Co触媒基準では1000回以上と報告されている。これはPt-tpy骨格の強い可視光吸収・長寿命励起状態が、別の分子触媒を駆動する発色団としても有用であることを示す。
2009年のInorganic Chemistry論文では、Pt terpyridyl acetylide錯体をTiO2表面に結合させ、白金担持TiO2を可視光で増感する試みが行われた。TiO2に固定した錯体もH2生成を増感するが、未固定の発色団よりTONは低く、表面での配向、逆電子移動、酸化的分解が問題になることが示された。ここでもPt-tpy錯体が水素生成触媒そのものというより、半導体・Pt金属触媒を駆動する光増感剤として使われている。
2019年のSuらのChemistry - An Asian Journal論文では、Au(III)光吸収部位とPt(II)-terpyridine触媒部位をアルキニル架橋で結んだAu-Pt異核二核錯体が報告された。この系では、Au部位が光を吸収し、Pt-terpy部位が触媒中心として機能することを狙っており、アスコルビン酸存在下、アセトン/水混合溶媒で最大TON 91が得られた。これは、Pt-terpyridine触媒部位を強い可視光吸収中心と組み合わせる方向の発展例である。ただし、著者ら自身も活性なコロイド状または低配位Pt(0)種の形成については完全な証明に至っておらず、機構解析は今後の課題としている。
4. 白金ターピリジン錯体の面白さ
第一の面白さは、Pt中心とtpy配位子が「触媒中心」と「光・電子受容部位」を同時に構成することである。tpyのπ*軌道は還元電子を受け入れやすく、Pt(II)中心はプロトン還元に関わる。通常の三成分系では、光増感剤、電子リレー、触媒が拡散で出会う必要があるが、Pt-tpy系ではその一部を同じ分子または同じ会合体の中に組み込める。
第二に、Pt...Pt相互作用と会合が反応性を生む点である。[PtCl(tpy)]+ は平面性が高く、濃度依存的に二量化・会合しやすい。二量体由来の3MMLCT励起状態は寿命が長く、EDTAから電子を受け取るための時間を稼ぐ。Okazakiらの二乗濃度依存性や、MartisらのXAFSによるPt(II)構造保持の結果は、Pt-tpy錯体の会合状態が単なる副現象ではなく、光触媒機能の一部であることを示唆する。
第三に、電子蓄積の設計自由度が高い。PV2+やペンダントMV導入体では、ビオローゲン様部位が電子を受け止め、二電子還元体、さらに三電子還元体へ進む多段階の光反応が観測される。水素生成は二電子反応なので、単発の光励起で一電子だけ動かす分子光化学とは本質的に相性が悪い。Pt-tpy/MV系は、このギャップを分子設計で埋めようとする系である。
第四に、EDTAとの弱い会合が単なる条件依存ではなく、反応設計要素になっている。多くの酒井グループの論文で、EDTA濃度に対する飽和挙動が観測され、EDTAのアニオン形とPt-tpy錯体のイオン対形成が初期還元的消光を助けると議論されている。2015年のtctpy錯体では、アニオン性の錯体とアニオン性EDTAが、それでも水素結合などを介して弱く会合しうることが示された。これは、犠牲剤を単なる電子源としてではなく、基質前会合・PCETの相手として扱う視点を与える。
この点は、2009年の [PtCl(tpy)]+ 論文のFig. 5を読むと特にわかりやすい。H2生成の初期速度はEDTA濃度の増加とともに上昇するが、15 mM以上では飽和する。これは、pH 5付近で主成分となる二価アニオン型EDTA、すなわち H2Y2- が、カチオン性の [PtCl(tpy)]+ 会合体、特に (1)22+ とイオン対アダクトを作り、短寿命の励起状態が失活する前に電子注入を起こしやすくする、という解釈と整合する。低EDTA濃度ではPt錯体がEDTAと十分に出会えず、濃度を上げると前会合体の形成確率が上がるため初期速度が増す。しかしPt錯体側の会合体・励起状態がほぼEDTAで捕捉されると、それ以上EDTAを増やしても速度は大きく上がらない。
したがって、この系で重要なのはEDTAの還元力だけではない。EDTAがアニオン性であり、Pt-tpy錯体の近傍に静電的・水素結合的に集まりやすいことが、初期電子移動を速くする要因になっている。実際、2016年のペンダントビオローゲン付きPt-tpy錯体の研究では、EDTAの代わりに中性の犠牲電子供与体であるTEOAを使うとH2生成量が大きく低下し、著者らはカチオン性Pt錯体とアニオン性EDTAのイオン対形成が反応開始に重要だと結論している。TEAやTEOAのような中性アミンも別の光触媒系では有効な電子供与体になりうるが、酒井グループのPt-tpy/EDTA系で見られるような明瞭なEDTA濃度依存の飽和挙動や、前会合を介した高速の還元的消光は、アニオン性EDTAに強く依存した特徴と考えるべきである。
5. 何が課題か
最も大きな課題は、活性と耐久性がまだ低いことである。酒井グループの初期Pt-tpy単一成分系はTONが数回、改良されたペンダントMV系でもTONは20台である。基礎研究としては非常に重要だが、実用的な水素生成触媒としては桁違いに高いTON、TOF、長時間安定性が必要になる。Ptを使う以上、貴金属に見合う触媒回転数を達成しなければならない。
第二の課題は、犠牲電子供与体への依存である。ここで扱った多くの系はEDTA、TEOA、アスコルビン酸などを電子源としており、真の水分解、つまり水の酸化と水素生成を結合した系ではない。特にEDTAとのイオン対形成が反応を強く助けるなら、EDTAを外したときに同じ設計原理が成り立つかは別問題である。水の酸化側から電子を供給する系、電極系、半導体との結合系へ展開するには、犠牲剤に最適化された機構を再設計する必要がある。
第三の課題は、分子触媒性の証明である。Pt錯体は光照射・還元条件下でPt(0)粒子になりやすい。Hg試験は有用だが万能ではなく、Hg自体が分子種や光増感剤に影響する可能性もある。Eisenbergらの研究が示したように、H2生成が見えても、それが分子状Pt錯体の反応なのか、光分解でできたPtナノ粒子の反応なのかを厳密に区別する必要がある。in situ XAFS、TEM/EDX、DLS、XPS、反応中UV-vis、ESI-MS、毒物試験、ろ過試験、光照射前後の再活性試験を組み合わせることが最低限必要になる。
第四の課題は、多電子・多プロトン過程の効率である。PV2+系やペンダントMV系では、一電子還元体や二電子還元体が暗所で直接H2を出すわけではなく、さらに光励起・還元を受けて高還元状態に進む必要がある。これはZスキーム的で美しいが、各段階で逆電子移動、失活、分解が競争する。電子をためるほど分子は還元的に不安定になり、Pt-Cl結合やアルキニル配位子、ビオローゲン部位の分解も問題になる。
第五の課題は、反応場の制御である。Pt-tpy系では会合が有利に働く場合がある一方、沈殿、自己消光、光吸収の内フィルター効果、表面固定時の不利な配向も起こる。濃度を上げれば二量体・会合体は増えるが、必ずしも効率が上がるとは限らない。TiO2固定系では、電子注入は起こっても逆電子移動や分解が増え、未固定発色団より悪くなる場合がある。したがって、会合・距離・配向・局所pH・プロトン供給を同時に制御する反応場設計が必要である。
6. 今後の発展への期待
今後の発展で最も期待できる方向は、Pt-tpy骨格を「単独で高活性な触媒」と見るだけでなく、「電子・プロトン・光を分子内外で整流するモジュール」として使うことである。たとえば、ビオローゲンやキノン、NADHモデルのような電子貯蔵部位を近接配置し、還元体の再励起を制御できれば、多段階光励起をより効率化できる。ペンダントMV系のTON改善は、その方向が有効であることを示している。
第二に、PCETを意識した配位子設計が有望である。tctpy錯体では、還元に伴うカルボキシレートの塩基性変化がpH依存性と駆動力を制御した。今後はカルボキシレート、ホスホネート、ピリジン近傍のプロトンリレー、内部塩基などを導入し、還元電子を受け取った瞬間にプロトンも適切な位置へ運ぶ設計が重要になる。これは水素生成だけでなく、CO2還元や小分子変換にも展開できる考え方である。
第三に、分子触媒性を保ったまま表面・高分子・MOF・半導体へ固定する方向がある。ただし、EisenbergらのTiO2固定系が示すように、固定すれば自動的に良くなるわけではない。固定化では、電子注入速度、逆電子移動、配向、局所濃縮、分解生成物の蓄積を同時に評価する必要がある。Pt-tpy錯体の会合性を制御できる足場、例えば規則的な二量化を許す高分子・超分子場は特に面白い。
第四に、反応機構の直接観測がさらに重要になる。Martisらのin situ XAFSは、Pt(II)種が反応中に保たれることを示した点で大きい。今後は、時間分解XAFS、時間分解赤外・過渡吸収、EPR、同位体効果、H/D交換、電気化学的発生種の分光を組み合わせ、Pt-H、Pt(III)-H、二核ヒドリド、配位子ラジカル、三電子還元体のどれがH-H結合形成に直接関わるのかを見極める必要がある。
白金ターピリジン錯体の魅力は、すでに完成した高性能触媒であることではない。むしろ、分子光触媒が水素生成のような多電子反応に向き合うとき、どこで電子をため、どこでプロトンを受け取り、どの段階で分子性が失われるのかを、非常に鮮明に見せてくれる点にある。今後の課題は、EDTAに支えられたモデル反応から一歩進み、分子性を保ちながら、より長寿命・高TONで、実際の電子供給系や水酸化側と接続できる設計へ進むことである。
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