フッ素の電気陰性度が全元素中で最も高い理由
An Atomic Orbital Perspective on Why Fluorine Has the Highest Electronegativity
Abstract: Fluorine’s extreme electronegativity is examined from an atomic orbital standpoint. We highlight its high effective nuclear charge with minimal shielding, the low energy (tight binding) of its valence 2p orbitals, and its large ionization energy and electron affinity. These factors, taken together, explain why fluorine attracts electrons more strongly than any other element.
はじめに:電気陰性度とフッ素の特異性
電気陰性度とは、原子が化学結合中で共有電子対を引き寄せる能力を表す尺度です。周期表上での一般的な傾向として、電気陰性度は右上方向(高原子番号の非金属ほど)で大きくなり、特にハロゲン元素で顕著に高くなります。中でもフッ素(原子番号9)は全元素中で最大の電気陰性度を示し、ポーリング尺度では他元素との相対比較の基準として4.0に定義されています 。これは、フッ素がほぼあらゆる他元素よりも強力に結合電子を引き付けることを意味します。なぜフッ素だけがこれほど突出して電子を引き寄せる力を持つのでしょうか。本記事では、大学院レベルの化学知識を前提に、原子軌道の観点からこの問いに答えます。具体的には、原子軌道の性質、有効核電荷と遮蔽効果、エネルギー準位、電子親和力およびイオン化エネルギーなど多角的な要因から、フッ素の電気陰性度の高さを解説します。
有効核電荷と遮蔽効果:強い核引力の源
フッ素の原子核は9個の陽子を持ちますが、価電子(2sおよび2p軌道の電子)が感じる実効的な核の引力は、それより小さくなります。内側の1s軌道の2電子がスクリーン(遮蔽)となり、価電子から見た有効核電荷は概ね+7程度になります 。同様に、例えば塩素(原子番号17)では1sおよび2s,2pの計10個の内殻電子により遮蔽され、価電子に及ぶ有効核電荷はフッ素とほぼ同じ+7程度です 。しかし決定的な違いは、価電子が核から存在する距離(すなわち原子半径)にあります 。フッ素原子は周期表第2周期であり、価電子は2殻目に位置するため核に非常に近い距離にあります。塩素は3殻目でフッ素より大きな原子半径を持つため、たとえ有効核電荷が同程度でも価電子へのクーロン引力は距離の二乗に反比例して減少します 。したがって、フッ素では核から近い距離で比較的大きな有効核電荷が作用し、価電子(結合電子)を強く引き寄せるのです。
有効核電荷(Zeff)と原子半径(r)の組み合わせが電気陰性度の高さを生むことは、Allred–Rochowの電気陰性度定義からも理解できます。AllredとRochowは電気陰性度を「原子の外側にある電子に及ぼす有効核電荷による静電引力の大きさ」と捉え、
と表現しました 。フッ素は他のどの元素よりもこのZeff/r2の値が大きいと言えます。実際、第2周期で原子半径が小さいほど核電荷当たりの引力は強く、また周期を横切って陽子数が増えることでZeffも増大します。その結果、リチウムからフッ素へと移るにつれて電気陰性度は急激に上昇します。この大きな有効核電荷と小さな原子半径による強い核引力こそ、フッ素が極めて高い電気陰性度を示す根源的要因です。
原子軌道とエネルギー準位:2p軌道の特徴
フッ素の価電子は2sおよび2p軌道にありますが、共有結合に直接関与するのは主に5個の2p電子です(電子配置: 1s²2s²2p5)。2p軌道は主量子数n=2の殻に属し、これがエネルギー的に低い(安定な)軌道であることが重要です。一般に同じ族で比較すると、主量子数の小さい殻の方がエネルギー準位は低く、電子は強く束縛されています。フッ素の2p軌道は、第3周期の塩素の3p軌道に比べて半径が小さく核に近いため、エネルギー準位が低く安定です。これはイオン化エネルギーにも反映されており、フッ素の第一イオン化エネルギーは約17.4 eVと、塩素の約13.0 eVよりもはるかに大きくなっています 。つまりフッ素の価電子(2p電子)は塩素の価電子(3p電子)よりも約4 eVも強く核に束縛されていることになります。このような軌道エネルギーの差が、フッ素原子が結合中の電子を手放しにくく、逆に引き寄せやすい性質につながっています。
L.C.アレンによる電気陰性度の定義は、この「価電子軌道のエネルギー」に着目しています。Allenは電気陰性度を「基底状態における価電子の平均エネルギー(一次電子エネルギー)の負値」と定義し、各元素の価電子エネルギーから電気陰性度を算出しました 。この視点では、フッ素の価電子(2sおよび2p)の平均エネルギーが非常に低い(安定である)ことが、そのまま高い電気陰性度を意味します。実際、Allenの尺度でもフッ素は全元素中トップの値を示しています。要するにフッ素の2p軌道は、非常に安定で低いエネルギー準位にあるため、電子を強く引き付けるのです。
さらに原子軌道の形状・浸透効果も一因です。2p軌道は半径方向の節を持たないため核近傍への浸透性が比較的高く、同じ殻の2s軌道にも一部浸透します。これにより1s電子による遮蔽を部分的に打ち消し、2p電子が感じる有効核電荷を増大させます。一方で3p軌道(塩素の価殻)は1つの節を持ち、核への浸透が2pより劣るため内殻による遮蔽の影響をより受けます。この違いもフッ素の2p電子が塩素の3p電子より強い核引力下にあることを助長しています。
イオン化エネルギーと電子親和力:Mullikenの視点
電気陰性度を定量化する別のアプローチとして、R.S.マリケン(Mulliken)が提唱した方法があります。マリケンは原子の電気陰性度を「電子を失う傾向」と「電子を得る傾向」の平均で評価し、具体的に第一イオン化エネルギー(I1)と電子親和力(EA)の平均で定義しました 。この定義では、数式で表せば電気陰性度ΧMullikenは:
となります。フッ素の場合、第一イオン化エネルギーI1は約17.4 eV、電子親和力EAは約 3.4 eVです 。一方、例えば塩素ではI1は約13.0 eV、電子親和力EAは約 3.6 eV程度になります 。これらをマリケンの式に当てはめると、フッ素のΧMullikenは約10.4 eV、塩素は約8.3 eVとなり、フッ素が塩素を大きく上回ります。塩素はフッ素より電子親和力自体はわずかに高い(Clの電子親和力約-349 kJ/mol、Fは約-328 kJ/mol)ことが知られています 。これはフッ素原子が極めて小さいため、新たな電子を2p軌道に収容する際に電子−電子反発が大きく、放出されるエネルギー(電子親和力の絶対値)がわずかに減少するためです 。しかしこの差は相対的に小さく、イオン化エネルギーの差(フッ素の方がはるかに電子を失いにくい)によって補われます。その結果、マリケン電気陰性度でもフッ素は塩素を含む他の元素より抜きんでて高い値を示します。言い換えれば、フッ素原子は「電子を放出しにくく、電子を受け取りやすい」性質が極端に強い元素なのです。このことがフッ素の卓越した電気陰性度の定量的裏付けとなっています。
結論:フッ素が示す卓越した電子引力の理由
以上の議論を総合すると、フッ素の電気陰性度が全元素中で最も高い理由は、多くの要因が幸運にも(あるいは必然的に)重なった結果と言えます。フッ素原子核は価電子に対して大きな有効核電荷を及ぼし(内殻が1sの2個しかなく遮蔽が不十分)、しかもその価電子は核に非常に近い2p軌道に存在するため強い静電引力を受けます。2p軌道自体のエネルギーは低く、電子は安定化されていて逃げ出しにくく(イオン化エネルギーが高い)、他方であと1個電子が入れば貴ガス配置を達成する構造のため電子を受け取る際にも比較的エネルギー的に有利です(電子親和力が大きい)。フッ素ではこのような「核による強力な引力」と「電子側の受け入れやすさ」が極限まで高まっており、結果として共有電子対を引き寄せる力(電気陰性度)が全元素中最大になっているのです。
補足すると、貴ガス元素のネオンやヘリウムも理論的には非常に高い電気陰性度(電子を引きつける傾向)を持つ可能性があります 。しかし貴ガスはすでに安定な閉殻を持ち通常は化合物を作らないため、「化学的に見た電気陰性度」という実用上の観点では比較の対象に含めません。したがってフッ素は事実上、化学反応に関与する元素の中で最も電気陰性度が高い元素であり、その卓越した電子引力は原子軌道と電子配置に由来する必然的結果なのです。
以上のように、原子軌道の性質(主量子数の小ささと軌道エネルギーの低さ)、有効核電荷の大きさと遮蔽効果の小ささ、そしてイオン化エネルギーと電子親和力の両面からフッ素の電気陰性度の高さを説明しました。フッ素のケースは、周期表における一般傾向(右上ほど電気陰性度大)の極限として理解でき、化学結合論や反応性を考える上でも重要な例と言えます。
参考文献
L. Pauling (1932). The Nature of the Chemical Bond. IV. The Energy of Single Bonds and the Relative Electronegativity of Atoms. J. Am. Chem. Soc. 54, 3570-3582. DOI: 10.1021/ja01348a011
R. S. Mulliken (1934). A New Electroaffinity Scale; Together with Data on Valence States and on Valence Ionization Potentials and Electron Affinities. J. Chem. Phys. 2, 782–793. DOI: 10.1063/1.1749394
L. C. Allen (1989). Electronegativity is the average one-electron energy of the valence-shell electrons in ground-state free atoms. J. Am. Chem. Soc. 111, 9003–9014. DOI: 10.1021/ja00207a003
C. Tantardini, A. R. Oganov (2021). Thermochemical electronegativities of the elements. Nat. Commun. 12, 2087. DOI: 10.1038/s41467-021-22429-0